1960年代後半から70年代にかけてのボウリングブームを象徴する存在で、日本プロボウリング協会会長も務めた中山律子(なかやま・りつこ)さんが7日、死去した。84歳。鹿児島県出身。死因は明らかになっていないが、発表した日本プロボウリング協会によると、病気療養中だった。
地元鹿児島でバレーボールに打ち込んだ中山さんは、高校卒業後、愛知県の実業団チームに加入した。ただチームは2年後に解散。鹿児島に戻り22歳の頃、友達に誘われて初めてボウリングをした。スコアは85点だったという。楽しくて、週1回通うほど熱中。バレーで鍛えたおかげで、ボールにスピードがあった。67年に大阪で開催された「第1回全日本オープントーナメント」で準優勝。東京タワーボウリングセンターにスカウトされ上京した。ボウリングの練習と並行して、東京タワーの大展望台までの600段の階段を往復して体を鍛えた。
空前のボウリングブームの中、69年に男子に続き第1回女子プロテストが行われ、中山さんは2位の成績で合格。1位は終生のライバルとなる須田開代子さん(95年に57歳で死去)、3位は石井利枝プロで、3人は「花のトリオ」と呼ばれた。須田さんとは幾度となく優勝を争い、プロ野球の巨人―阪神戦に匹敵するライバル関係として注目を集めた。
中山さんの人気を不動のものにしたのは、70年8月21日に行われた女子プロ8月月例会決勝。12投全てストライクを決め女子プロ初のパーフェクトゲーム(300点満点)を達成した。この試合がテレビ収録されていたこともあり、跳び上がって喜ぶ中山さんの姿に列島が熱狂。同年大みそかのNHK紅白歌合戦では特別審査員を務めた。72年に出演した花王のシャンプー「フェザー」のCMで流れた「律子さん、律子さん。なかやま律子さん」の歌が話題となり、「さわやか律子さん」のフレーズが中山さんの代名詞となった。どこに行ってもサイン攻めで、中山さんは“ボウリングの顔”だった。
ブームが下火になってからは、競技の普及、発展にも尽力。04年には女性初の日本プロボウリング協会会長に就任し、12年に名誉会長になった。プロ通算33勝。永久シードプロだった中山さんは「生涯現役」と語っていた。
《「P★リーグ」発足に尽力》中山 律子(なかやま・りつこ)1942年(昭17)10月12日、群馬県で生まれ、鹿児島県で育つ。女子プロボウラー1期生13人の1人で、ライセンスナンバー「2」。利き腕「右」。通算アベレージは197・11。公認パーフェクト2回。日本プロボウリング協会会長としてメディアを意識した個性的な女子選手が出場する「P★リーグ」を発足させた。2017年、殿堂入り。プロゴルファーの故中山徹さん(享年77)は実弟。
《高度成長期「国民のレジャー」》ボウリングは高度成長期に「国民のレジャー」として一大ブームになった。1969年に全国970だったボウリング場は、72年に3697まで増え、入場するのに数時間待った。テレビ各局のボウリング番組も10本を数えた。プロテストの受験者も全盛期は年間2000人を超えていた。だが、73年の第1次オイルショックによる景気後退の影響を受けブームは下火になっていった。
2026年11月08日 07時46分