松井秀喜に監督を要請した理由を巨人オーナー・山口寿一(読売新聞グループ本社社長)は「ジャイアンツの危機」だからと言った。「力強く乗り越えるには松井監督にお願いするしかない」
34年前と実に状況が似ている。1992年10月、長嶋茂雄が巨人監督に復帰した。当時「プロ野球の危機」と盛んに言われていた。Jリーグが創設元年(1993年)を控え、サッカー人気が沸騰していたのだった。
12年間「浪人」していた長嶋は東京・麹町の料亭で読売新聞社長・渡辺恒雄(後に巨人オーナー)から「球界の存亡を賭けた要請だから引き受けてくれ」。著書『野球は人生そのものだ』(日本経済新聞出版社)にある。「サッカーに負けることなく球界のリーダーシップをとってくれ」。殺し文句に「やりましょう」と受諾したのだった。
就任直後のドラフト会議で1位指名4球団競合の星稜高(石川)の松井を引き当てた。以来、師弟関係は長く、ともに国民栄誉賞を受けるまでになった。
実際、球界は大いに盛り上がった。2年目1994年はあの「勝った方が優勝」の「10・8決戦」を自ら「国民的行事」とまで言った。現役時代「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋は、かつがれたみこしに乗り、その役目を果たしたのだった。
当時、トラ番キャップだった。阪神監督・中村勝広はドラフト抽選に敗れた夜、東京・銀座のバーで「来年はおもろなるぞ」と、あえて関西弁で言って笑った。松井を逃したのは無念なのだが「長嶋さんが戻ってきた」と喜んでいた。球界復興への思いがあった。
その1992年、阪神はヤクルトと最後まで優勝を争った。亀山努(現本紙評論家)や新庄剛志(現日本ハム監督)が本格デビューし、阪神はフィーバーに包まれていた。中村は同じ千葉出身で長嶋信奉者だが、好敵手として対戦を楽しみにしていたわけだ。
だが、阪神は翌1993年から4、4、6位……と成績は下降線をたどった。いわゆる暗黒時代に突入していった。
中村が監督在任中のある時、東京ドームで長嶋が阪神のバスが帰る光景を見ながら「トラちゃん、元気がないですねえ」と言ったのを覚えている。巨人も首位にいなかったが、阪神の低迷を案じていたのだ。「伝統の一戦」の好敵手を本気で案じていたと感じた。
野球界は今も「危機」にある。野球人口減少が叫ばれて久しい。松井の巨人復帰は巨人だけでなく、球界全体の活性化に期待がかかる。会見でも同様の質問があり、松井は「長嶋監督ほどの社会的影響力があるとは思ってません」と話した。
実は松井もわかっているだろう。会見で口にした「巨人の哲学、理念」として「紳士であれ」など、初代オーナー・正力松太郎の遺訓を引用した。
さらに書けば、正力の信条には「利行は一法なり」がある。「普(あまね)く自他を利するなり」。拙著『若林忠志が見た夢』(彩流社)で、2リーグ制への拡大構想を示した正力の思いを調べ、いきついた理念である。
元は曹洞宗の開祖・道元の『正法眼蔵』にある。利行とは見返りを求めずに他人の利益になるよう尽くすことを指す。だから「競争は発展の母」なのだ。
松井は口にはしなかったが、巨人だけではなく、野球界全体の危機に立ち向かう覚悟を抱いていよう。松井と親交が深かった作家・伊集院静は<彼の人生はいつも、逆風に立っていた>と著書『逆風に立つ 松井秀喜の美しい生き方』(角川書店)で書いた。<それを平然と受け止め、克服してきたのだ。その姿に私たちは勇気と大きな感動をもらっていたのだ>。
阪神も危機感を抱きたい。甲子園が連日超満員で観客動員は一番、リーグ連覇で強さも一番だと、受けて構えていてはいけない。「伝統の一戦」をまみえるライバルの本気で必死な姿勢に、より奮起しなくては、また甲子園に閑古鳥が鳴く。暗黒時代がやって来る。
つまり、球界再興の使命は阪神にもある。「巨人が盟主」といった時代は過ぎ去った。前回、長嶋が見せた球界活性化の役割は、松井の巨人だけでなく阪神も負っている。「危機感」を共有したい。そして、心して臨みたい。 =敬称略= (編集委員)
2026年10月24日 08時00分