今では映画会社・東映がプロ野球チームを持っていたことを知らない人が増えた。東映フライヤーズとして1954年から72年まで活動していた。現在の北海道日本ハムファイターズである。
その東映が野球と映画をテーマにした特別展を開催する。東映・太秦映画村(京都市右京区)で今月21日から「追悼 張本勲 野球と映画―東映とともに―」と題して行う。
東映の主力選手として活躍した張本勲さんが9月9日に86歳で永眠した張本勲さんをしのぶ。東映は「張本氏の功績と東映フライヤーズの栄光を振り返り、その記憶を次の世代に伝えてまいります」としている。
展示品の目玉と言えるのが1962(昭和37)年、東映が初のパ・リーグ優勝、そして日本一に輝いた時のリーグ優勝旗、そして日本シリーズ優勝ペナントだ。
73年の球団譲渡のあとも丸の内東映の倉庫で保管されており、90年代に確認されていた。昨年7月、東京・銀座の東映会館から京橋への本社ビル移転の際、あらためて見つかり、京都撮影所の資料室へ移管。今回の展示につながった。
特別展開始の10月21日は日本シリーズ第7戦(甲子園)で阪神を延長12回、2―1で退け、4勝2敗1分けで退け、優勝を果たした記念すべき日でもある。
張本さんはこの年、プロ4年目の23歳。4番打者としてチームをけん引し、全133試合に出場。打率3割3分3厘、31本塁打はともに野村克也(南海)に次ぐリーグ2位。最高出塁率(4割4分)のタイトルを獲得し、最高殊勲選手(MVP)に選ばれた。日本シリーズでも全試合4番・レフトで出場、26打数12安打(打率4割6分2厘)と活躍し技能賞を獲得、日本一の原動力となった。
関係者によると、優勝旗、ペナントの存在を生前、張本さんに伝えたのは京都撮影所に務めていた社員で、社内の草野球チーム「関西東映フライヤーズ」の監督だった。
張本さんは「それはすばらしい。ぜひともまた見たいものだ」と話していたという。その思いはかなわなかったが、今回の展示で追悼の意味をこめた。
また、東映の球団創設から優勝までを伝える記録映画『東映優勝 背番号100』を随時上映する。上映時間23分。
球団オーナーだった本社の大川博社長が優勝祝賀会で着ていたユニホームの背番号が「100」だった。当時も後身の日本ハムでも永久欠番となっている。映画では野球を愛した大川氏が次のように語っている。「僕としてはだよ。13年間のね、悲願が達成されて初優勝したと。こんなうれしいことはありません」
展示品はほかに、張本さんが現役時代、本人役で特別出演していた映画『地獄の野良犬』(1966年)や引退後に菅原文太の兄弟分の役で出演した『修羅の群れ』(1984年)などのポスター。張本さんの背番号「10」の復刻ユニホームなどもある。
展示は年末まで。入場無料だが、映画村の入村料は必要。
スポニチ本紙評論家で、お世話になった張本さんがなくなった際は追悼文も書かせてもらった。張本さんが「青春時代だった」と懐かしんでいた東映が野球を見直すイベントを行うのは何とも喜ばしい。 (編集委員)
◆内田 雅也(うちた・まさや) 東映のリーグ優勝、日本一の時はまだ生まれていなかった。それでも小学生時代、テレビは巨人戦ばかりだったが、新聞や雑誌で東映フライヤーズは知っていたし、張本勲さんが強打者というのもわかっていた。映画館に「東映まんがまつり」も観に行った。1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。主に阪神を追うコラム『内田雅也の追球』を書いて20年目を迎えている。
2026年10月18日 11時31分